STILL
鼻先と鼻先が――――重なり合いそうな距離。
・・・・オレの姿を映す2つの碧眼は、瞬きを忘れているんじゃなかろうか。
普段から大きな瞳が、それ以上に開かれてて。
――――けれど、きっと。
眼前の少女も、オレと同じ事を考えている筈だ。
この状態に陥ってから、一度も瞬きをしていないと思う。
『死んだ魚の様な瞳』と揶揄された、己の瞳は。
やはり同じ様に驚きを隠せずにいる、少女を映しながら。
限界まで―――――開かれていると確信する。
何て事ない、ちょっとした『事故』だった。
ほら。ドラマとかで、よくあるだろ?
ヒロインが何かに躓いて、それを支えようとする主人公が。
ちょっとした拍子で体勢を崩し――――そのままヒロインを。
抱えたまま、床に横たわってしまう場面ってヤツ。
―――――今。まさしく、オレと神楽はそんな感じだ。
コイツも、居間に転がってた何かに躓いて。
「ぬお!?」と色気の欠片も無い、悲鳴を上げたと思ったら。
身体を傾かせて、勢い良くオレの方に倒れて来た訳。
咄嗟に近寄り「何やってんだ」と、片腕差し出して支えようとしたのだが。
オレ自身・・・・足を絡ませてしまい、神楽の勢いに乗って倒れてしまった。
・・・・・普通考えられねえ、ドジっぷりですヨネ。
板の間に身体が到着すれば、震動が全身に伝わり――――直後に短い悲鳴。
反射的に瞑った両目を、ゆっくり開ければ。
見慣れた天井が、視界に映った。
そのまま視線を下に移動させれば、オレの着流しと服を両拳で握っている。
これまた見慣れた頭部が見えたので、「神楽」と名を呼び。
両ひじを支えにして、横たわっている身体を起こす。
「お〜い。いつまで、銀さんの上に乗っかてるつもりだ?とっとと降りろって」
「あ・・・・びっくりしたアル―――銀ちゃん、サンキ―――」
そう言って胸板に、押し付けていた顔を上げながら。
酢昆布娘がこちらに、視線を寄越した時だった。
―――――冒頭の状態に、陥ったのは。
まさかお互いの顔が、こんなに近くにあるなんて思いもしなかったのだ。
どちらかが意図的に身体を動かせば、唇と唇が簡単に触れ合える。
神楽の吐息が、オレの唇に掛かる。
それは――――柔らかな空気となり、口元まで届けられて。
そして多分、オレの吐息も――――。
此処で『とっとと退きなさい』と、一言少女に向けて発すれば良いのに。
何故かその言葉が喉元を過ぎても、前歯で塞き止められてしまう。
――――――何故だ?思うように、唇が動いてくれないのは。
まさか『この先』の行為を、望んでいる自分がいるがいると言うのか?
・・・・・の前に。
どうして神楽から、退こうとしないんだ?
いつものコイツだったら、「悪ィ〜悪ィ〜♪」と。
これっぽちも悪いと思っていない態で、オレから離れる筈なのに。
―――――それ所か。
少女の鼓動の早さが、オレの胸板に伝えられて来る。
・・・・・まるで、早鐘みてえだ。
それとも。ひょっとして――――オレ自身の鼓動なんだろうか。
―――――そう言えば。
いつもなら、こんな光景目にした瞬間。
『あんたらああああああ!!何其処で、微妙なフインキ醸し出してんだあああああ!!』
――――と、見事に突っ込んでくれると思われる。頼みの綱のダメガネは?
アイツの怒鳴り声が、ちっとも聞こえて来ねえじゃん。
あ、そっか。・・・・・・・・思い出した。数十分前に。
白いデカ犬連れて『買い物』に出たんだっけ。
今室内にいるのは、オレと少女の二人だけ。
1秒1秒と刻まれていく――――秒針の音だけが、鼓膜に届けられる。
さっきから――――同じ態勢で、動く事もままならない。
「―――――――」
これはもしかして、流れに任せろって事?神様の啓示?
数センチ先にある、淡い桜色した容の良い唇に――――挨拶しろって事?
知らず知らず胸中に湧き上がる、感情の赴くままに。
己の身体を支えていた、腕の片方を動かして。
微動だにしない、酢昆布娘の背中に掌を乗せれば。
一瞬だけ身体を震わしつつも、オレから視線を外そうとしない。
澄んだ蒼が2つ、微かに揺らめいている。
華奢な背に置いた掌を――――徐々に、徐々に上へと移動させていき。
背・・・・肩・・・・を通り越し、項へと辿り着かせ動きを止めた。
「・・・・・・・・」
今なら――――何事も無かった様に、やり過ごせる。
『ごめん、銀ちゃん』と、立ち上がれ――――神楽。
――――――だが。
少女は、先程の体勢を変えようとはしない。
オレの動きに臆するどころか、ただこちらをじっと見つめるだけ。
その瞳に促される様に、項に留まった掌は動きを再開させる。
――――そして。
左手は後頭部で無意識に止まり、少女の頭の容の良さを認識させた。
このまま少し掌に力を加え、後頭部を前に押し出せば。
酢昆布娘は――――当然だが、前に傾き。
・・・・・互いの唇が、出逢う。
開かれていた蒼の瞳が、ゆっくりと閉じられていく。
睫を震えさせながら、視界を闇にさせようとする酢昆布娘の行動を皮切りに。
―――――無意識にオレは、掌に力を加えていた。
数秒後・・・・・唇に、暖かな感触が舞い降りる。
この時はまだ――――気付かずにいた。
暖かく柔らかな唇に・・・・いや、この少女自体に。
信じられない程に『嵌る』自分が、いたなんて。